現場の近所の丼もの屋に行った。GO-BANG'SがBGMで流れてた。何故?
再来週、台湾に行く事がたった今決まりました。ちなみに、日帰りだそうです。
さて今宵も、晩夏の夜風に揺れる風鈴のささやきの如く慎ましやかな清水さやかさま、の魅力を語ってみよう。今回は清水さやかさまの精神的な部分の魅力を語ってみたい。
我々は成長するにつれて汚れる。決して物理的な意味ではなく、精神的な意味でだ。なぜ汚れるかというと、それは社会が汚れているからである。激烈で陰湿な競争、過程を問われず結果が問われる制度、そんな社会だ。ここから生まれるのは他人への思いやりの無さと猜疑心と義理の欠如である。そのような社会で生き残るには同様の武装を施して、他人を騙し、他人を疑い、他人を食い物にする心構えが重要だ。そして、実際に我々は人生を歩むうちに、それらの技術を習得し実行する。このようにして我々は汚れる。
我々の一部は自分が唾棄すべき汚れた人間に成り果てた事を嘆き、汚れていない子供に価値を見出す人もいる。しかし、それは不毛である。なぜならば、そんな子供たちも成長し、汚れた社会に最適化するからである。
そこで、秋の田に波打つ黄金の稲穂の如く美しい清水さやかさま、である。ずいぶん前の清水さやかさまの日記になるが、ここを読んで頂きたい。
今日ね、楽しかった。 結果は秘密だけど、楽しかった。 いじわるする人もいたけど、楽しかった。 ばかにする人もいたけど、楽しかった。 さやかの邪魔した人もいたけど、楽しかった。 『カタン』のコンパニオンのお姉さんに物真似されたけど、楽しかった。 今日ね、楽しかった。
_ これぞ、清水さやかさまの本質であり真髄ある。清水さやかさまもそれなりの年齢であり、汚れた社会をご存知のはずである。実際に上記のように他人の悪行を書かれておられるから、充分に認識しているワケだ。ところが、それらの悪行を非難するどころか「楽しかった」と表現しておられる。これは、汚れてしまった我々のダメさを知りつつもなお、我々の中に残っているかもしれない汚れていない部分を信じ、それが発露するのを待ち、我々の悪行を許そうとしておられるのだ。
偉大な先人の言葉に「愛とは、信じ、待ち、そして、許す事だ」というのがある。上記のように我々は清水さやかさまに信じていただいていて、待っていただいて、許していただいている。つまり、我々は清水さやかさまの愛に包まれて生きているのだ。それに気づかない無知蒙昧な愚民である我々は、その大いなる恩寵に見向きもせずに生きている。恥ずかしい事ではないか。
この清水さやかさまの大いなる愛に気づいたとき、私は身も心も懐も捧げようと誓ったのである。
当日、悪行をやらかしてしまって落ち込んでいた私を
>さやかの邪魔した人もいたけど、楽しかった。
の文を読んで救われ、すばらしき愛を感じました。